うきうきマンドリル

鼻の角栓抜くのの次くらいの暇つぶし

留年生が孤独ってそれ当たり前だろ

前回は「積極的に引き籠ろう!」「ぼっち礼讚!」くらいの勢いで自分の私生活の指針を語ってみたが、僕も社会的動物であり、むしろ人一倍寂しがり屋なので、孤独から逃れたいという感情を否定することはできない。もともと友達は少ない人生であったが、それでも親しく接してくれる友人が男女合わせて5人くらいはすぐにも思い浮かんだ僕は、少なくとも昨年まではぼっちと称される対象には決してならなかったように思う。友達が少ないので、時にその友達数名が近くにおらず、傍から見て僕が「ぼっち状態」に映ることもままあった。が、それは一時の現象であり、決して心が折れるほどのものではなかった。僕は、断じて、独りじゃなかった。

 
しかし留年してから僕は本当の意味で孤独になった。休み時間に教室の片隅で独り、スマホをいじっている時(今現在もスマホからブログを書いている!)なんかには昨年のような余裕はなく、ただただ惨めさだけが募ってゆく。3年生に上がっていった友人たちと縁が切れてしまったわけではないが、同じ教室で授業を受け、同じ時間帯に食堂で昼ご飯を食べることはなくなってしまったわけである。自然と疎遠になっていくだろう。GWには彼らと街に繰り出していってお酒を飲んだが、今後こういった機会も減り、関係性が薄まっていくことは想像に難くない。
 
学年に数人いる他の留年生のなかには、学年を離れてもなお元のクラスメートに癒着して過ごしているやつもいる。授業にも出ず、予定も元の友達に極力合わせて生活しているようだ。これには本人のある意味での懸命な努力と、その友人側からの気遣いが不可欠である。言い換えれば、「かわいそうだから今まで通りの付き合いを続けてやる」ような。そういう点で僕は意地っ張りなので、同情されることを嫌って今の環境に平気なそぶりを友人に見せる。最初のうちは僕も我が友人らから身に余るほどの気遣いを受け取っていたが、とにかく憐れまれるのが嫌なのだ。居た堪れなくなる。なんなら今の環境にすっかり馴染んでいるように振る舞う。実際問題、これから今の2年生のコミュニティの中に自分の居場所を築かなくては、卒業までの自分の学生生活が苦しい、と感じている。だから自らに試練を課している、と言ってしまえば格好はつくだろうか。元の友達も大切にしていこうとは思うが、依存してしまう惨めさに恥意識の強い僕は耐えられない。2つの学年をまたいで、友達が倍に増えたったwwwwくらいのことが言えたらと思う今日この頃。
 
 
そんなことをモヤモヤと考える最近の僕は、部活の後輩を取っ掛かりに、その友達の一人と食事に出掛けた。なぜその子が僕と話してみたいと思ったのかはよく分からないが、その会食は比較的良好な雰囲気でもって執り行われた。ちなみに相手は女の子である。今まで友達なんて作るものじゃなくて自然に発生していくものだと思っていたので、なかなか輪を広げていけないもどかしさを感じている。まして「元・上の学年の先輩」という関係性は、邪魔以外のなにものでもない。
 
今週はその会食が珍しくアクティブなスケジュールとして舞い降りたが、普段は週3の部活と、週1回あるかないかの頻度で元からの友達とご飯に行くぐらいの予定しかなく、あとは恋人に相手をしてもらうことで寂しさを埋める。3月の時点(留年する前)では、恋人がいればぼっちでも辛いことはないだろうと高を括っていたが、僕はここでもやっぱり意地っ張りで、彼女が孤独な僕を憐れむのは癪なので、特に悩みもなく快適な留年生活を送っているように振る舞っている。恋人の存在自体は有り難いが、本心をさらけ出す気にはなれないし、これも束の間の現実逃避の対象でしかないのかなとも思う。つまり大学での人間関係の問題の解決にはなっていない。家に帰れば暖かいご飯が待っていて、母親の慈愛にすがることだってできる少年も、いつかは社会に出ていかなくてはならない。結局は「積極的に引き籠ろう!」はファイナルアンサーにはなり得ないということか。
 
これは決して、精神的な支えになってくれる恋人がいることを自虐風自慢をしているわけではない。決して。精神的依存を一人の対象に向けることで自分の弱みを見せることが恥ずかしくて仕方ない。そういう心理の話である。